化粧品の歴史(日本)

化粧品の歴史(日本)

今から2000年以上も前になる縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪の顔面に、赤い顔料が塗られていることから、顔に赤土を塗ることが当時の風習であり、日本の化粧のルーツであるとされています。
ただしこの顔料は、「オシャレ」を目的としたものではなく、魔除けとして行われていたようです。

 

6世紀の後半から、遣随使により中国から紅や白粉が輸入されるようになり、同じ時期に日本からは椿が輸出されています。
この時代の美的感覚は、正倉院の「鳥下立女屏風」や、薬師寺の「吉祥天女蔵」で確認されるように、当時の先進国である中国を意識したものが主流で、唇を濃い赤で染めあげ額と口元には、鮮緑色の花鈿・靨鈿(かでん・ようでん)を付けるスタイルが宮廷を中心にして流行しました。

 

692年に沙門勧成が国産初の鉛で出来た白粉を完成し、続いて713年には水銀で出来た白粉も登場します。

 

高松塚古墳に描かれている壁画や、それからさらに時代を経た源氏物語絵巻などに登場する女性などは、肌の色や眉毛の形などに特徴があります。
平安時代になると、宮廷の女性たちが鳳仙花を使って「爪紅」をするようになります。
現在のマニキュアのルーツといえます。

 

平安末期になると、男も女性と同じような化粧をするようになり、 お歯黒文化も復活しています。
武士でありながら、宮廷文化に憧れ白塗りの顔に置き眉・口紅を塗り、 お歯黒もするといった貴族の習慣を取り入れた平家を破った源氏は、反動からか質実剛健を旨とし、平安貴族風の化粧は女性だけのものに戻りました。

 

応仁の乱を機に時代は戦国時代へと移り、相次ぐ戦いのさなか武士の間では首を取られたときに恥ずかしくないように・・・という意識が化粧に結びつきます。

 

江戸時代には化粧をする層の裾野が広がりますが、 そのファッションリーダー的存在が歌舞伎役者や遊女達でした。
当時の白粉はまだまだ鉛や水銀製の物が多かったのですが、反復使用するうちに慢性毒が体内に蓄積され、一種の職業病として幾多の悲劇が生まれています。

 

紅花は最高級の口紅用材料として珍重されていましたが、非常に高価なためまだまだ庶民に手に入るような物ではなかったようです。

 

明治時代になると文明開化とともに、欧米の人工科学化粧品も輸入されるようになりました。